「こわいさん」 ―老女のひとりごと(5)

f:id:babytomi:20210721184200j:plain

 我が家の二階の床の間には、碁盤と碁笥(ごけ)が置いてある。もう飾り物になってから十幾年余りにもなるだろうか。今は部屋も使わない。

 階段をとんとんと上がったとき、たまに部屋をのぞくと、なぜか碁盤が目に入る。私を忘れないでと言っているようだ。

 人はたいてい主人のものと思うだろう。けれど、これは昔私が買ったもの、うちの主人は麻雀好きで碁はやらなかった。ひょんなことから私は碁を習うことになってしまったのだ。

 ――私はお琴の先生である。教えるなんて夢にも思っていなかったが、小さい頃からの成り行きで、子供が大きくなった頃には、家元にも通っていた。

 家元のお稽古は週二回、三曲界の華やかな行事が多く、神経をすり減らすところだ。

 みな弟子を持つ身の集まり、女ばかりの大奥なので大変である。だから何事も見ざる聞かざる言わざるがいい。だが、家元は激しい気性、公平とは言いかねるときもある。また、色々と制約もある。そのためいつも、陰では波風が立つ。波紋はどうしても拡がる。何も言えない下の者が、毎度毎度悩まされることになる……。

 そんなある日の帰り路。一つ手前の駅で吊革にもたれながら、外を見るともなしに眺めていたら、「碁会所」の文字が飛び込んできた。

 ――ふと、子供の頃を思い出してしまったのだ。近所に碁好きのやさしいおじさんがいたっけ。あの頃は、よかったなあ……。

 うんざりしていた気持ちの反動はおそろしい。私は不意に碁を習いたくなってしまった。これしかない、と思ってしまったのだ。こういうときは何故か決断が早くなる。

 おそるおそる入った駅前の碁会所のおじさんはやさしかった。大それたことをするような気もしたが、名前など内緒でいいと言う。

 ――この世界でなら自由になれる。それに家元からの帰りなら、何とかなりそうだ。

 そんなわけで私は、週に一回通うことになってしまったのだ。

 新しい冒険に急に元気が出てきた。せっかちな私は形から決めたい。そこでどうしても道具が欲しくなる。とうとう、手ごろな碁盤に、石だけは無理をして、中くらいの厚みの蛤と那智黒石を買ってしまった。こうなるともう子供も同じだ。

 だが、お待ちかねの物が届いたときは、愕然としてしまった。我に返ってみると、どう考えても主人には言えない。仕方がないので、しばらくは内緒にしようと思い、押し入れにしまってしまった。

 少しずつ分かってきたのは、まず定石を覚えなければならないということだ。「そこは、このあいだ教えたでしょ」「そこは止鳥(しちょう)ですよ」と笑われたりした。でも、忙しい身だから仕方がない。気にせずに通っていたら、ある日、褒められたのか飽きられたのか、「お稽古慣れしている人はどこか違う。女の人ははずかしがってすぐやめてしまうが、アンタは偉い」と言われてしまった。

 五ヶ月目ころ、「そろそろ名前を教えて」と言われる。碁会所には皆の名札が掛かっている。ご主人はもちろん七段。出来ない私をメンバーの賑やかしにでもするつもりらしい。「とんでもない」と私は取り合わなかった。

 その後、用事があってな二回ばかりお休み。しばらく振りにたばこ臭い部屋に入った私に、「やあ、待ってましたよ。あれ書きましたからね」と、ご主人はにっこりして名札の方を指差す。私の名前は秘密のはず……。何が何だか分らぬまま、ずらりと並んだ名札のどんじりを見上げてみた。

「七級、小和井」と、書いてある。

「まあ!」と、思わず笑ってしまった。とっさにご主人の考えが、私には分かってしまったのだ。日頃教わるときに、何気なしに「ああ怖い、ああこわい」と、私は口癖のように言っていた。七級は、大負けにまけた飾り物なのだ。

 ――その後、主人の病気で、家のお稽古も家元の方もお休みすることとなり、囲碁にも行かれず、とうとうそれっきり……。

 最低のルールだけは、ちょっぴり分かったものの、あの時の好奇心は、今はもうすっかりどこへやら……。

 あの、ユーモアのある碁会所のご主人は、今頃元気かしらと懐かしく思う。

 一度も使われなかった碁盤は、とうとう床の間で本物の飾り物になっていたのだ。

                                   1993.3

年の暮れ ―老女のひとりごと(4)

f:id:babytomi:20210721173619j:plain


 札幌の大通の一つの樹にライトアップが施された、というニュースがテレビに出た。早くも年の暮れの商戦が始まろうとしている。まだ11月ではあるし、暖かくてとてもそんな気持ちにはなれないが、季節は確実にやって来る。

 そういえば去年は、仙台のライトアップに見とれたものだ。たしか、正月二日の夜であった。仙台の商店街は道幅が広く、歩道と車道の間には大きな街路樹がどこまでも続いていた。葉のすっかり落ちたこまやかな枝先に、小さな電球がちりばめられ、ずらりと並んでキラキラと暖かく輝いていた。歩いていて心が慰められたものだ。

 去年の暮は、夫が亡くなってまだ五ヶ月目だったので、お正月などうらめしく、ましておせちなど見たくもなかった。いっそ遠くへ行ってしまおうかとも思った。でも、年越しを外でするなんて今までしたこともなかったので、息子にどう言おうかと迷っていたら、息子は「思い切って出かけたら」と言ってくれた。私がぐずぐずしているうちに、他のツアーはみな満席となってしまい、仙台方面しか残っていなかった。仙台は昔、何回も行った場所ではあったが、東京を離れられれば私はどこでもかまわなかった。幸い宿は二晩とも個室だったし、知らない人とのさりげない話も、私の心を和らげてくれた。

 年の暮れがまた近づいてくる。

 近頃は何故か夫の良いところばかりが思い出され、切なくなることがある。もうだいぶ昔の話になってしまったが、夫は跡取り息子なのに田舎の家を継がず、姉夫婦が家を継いでいた。父の死後、遺産のことで仲たがいをした夫は、権利を棄てて姉夫婦とはずっと絶交をしていた。夫の病気が悪化して、延命はもう点滴しかないとわかった時、夫の姉は申し訳ないと思ったのか、田舎に近い立派な病院の特別室を探し、部屋代やら付き添いの費用一切を、最後まで持つと言い出した。東京の病院から寝台車で移り、そこでの入院は十ヶ月ほどであった。長い苦しい闘病の後の、夜明けに迎えた臨終は、胸を打たれるほど静かで安らかであった。

 私の心はまだあてどない。

 だが近頃は、心の痛みも少しずつ胸の奥底で鎮まりだしてきたようだ。これからを、自分らしく生きるにはどうしたらよいのか。

 時には、思い切り変身でもしてみようか――などと強気なことも考えたりする。でも、「それでとうなるというの……」という自問自答がたちまち頭の中に広がりはじめ、私はがんじがらめとなってしまう。一方では、変身できたらどんなに良いだろうと夢を見る。私の心はさながら風にそよぐ葦のようだ。

 いろんな旅行社から、パンフレットや本がどさっと我が家に届く。

 今年もまたどうしようかと迷ったが、やっぱりお正月は家に居たくない。大晦日から出かけることに決めた。心が定まるまでは、自然にまかせようと思う。

                                 1992.11

 

f:id:babytomi:20210718150239j:plain

f:id:babytomi:20210721173810j:plain

 

年の暮れ ―老女のひとりごと(4)

f:id:babytomi:20210721173619j:plain


 札幌の大通の一つの樹にライトアップが施された、というニュースがテレビに出た。早くも年の暮れの商戦が始まろうとしている。まだ11月ではあるし、暖かくてとてもそんな気持ちにはなれないが、季節は確実にやって来る。

 そういえば去年は、仙台のライトアップに見とれたものだ。たしか、正月二日の夜であった。仙台の商店街は道幅が広く、歩道と車道の間には大きな街路樹がどこまでも続いていた。葉のすっかり落ちたこまやかな枝先に、小さな電球がちりばめられ、ずらりと並んでキラキラと暖かく輝いていた。歩いていて心が慰められたものだ。

 去年の暮は、夫が亡くなってまだ五ヶ月目だったので、お正月などうらめしく、ましておせちなど見たくもなかった。いっそ遠くへ行ってしまおうかとも思った。でも、年越しを外でするなんて今までしたこともなかったので、息子にどう言おうかと迷っていたら、息子は「思い切って出かけたら」と言ってくれた。私がぐずぐずしているうちに、他のツアーはみな満席となってしまい、仙台方面しか残っていなかった。仙台は昔、何回も行った場所ではあったが、東京を離れられれば私はどこでもかまわなかった。幸い宿は二晩とも個室だったし、知らない人とのさりげない話も、私の心を和らげてくれた。

 年の暮れがまた近づいてくる。

 近頃は何故か夫の良いところばかりが思い出され、切なくなることがある。もうだいぶ昔の話になってしまったが、夫は跡取り息子なのに田舎の家を継がず、姉夫婦が家を継いでいた。父の死後、遺産のことで仲たがいをした夫は、権利を棄てて姉夫婦とはずっと絶交をしていた。夫の病気が悪化して、延命はもう点滴しかないとわかった時、夫の姉は申し訳ないと思ったのか、田舎に近い立派な病院の特別室を探し、部屋代やら付き添いの費用一切を、最後まで持つと言い出した。東京の病院から寝台車で移り、そこでの入院は十ヶ月ほどであった。長い苦しい闘病の後の、夜明けに迎えた臨終は、胸を打たれるほど静かで安らかであった。

 私の心はまだあてどない。

 だが近頃は、心の痛みも少しずつ胸の奥底で鎮まりだしてきたようだ。これからを、自分らしく生きるにはどうしたらよいのか。

 時には、思い切り変身でもしてみようか――などと強気なことも考えたりする。でも、「それでとうなるというの……」という自問自答がたちまち頭の中に広がりはじめ、私はがんじがらめとなってしまう。一方では、変身できたらどんなに良いだろうと夢を見る。私の心はさながら風にそよぐ葦のようだ。

 いろんな旅行社から、パンフレットや本がどさっと我が家に届く。

 今年もまたどうしようかと迷ったが、やっぱりお正月は家に居たくない。大晦日から出かけることに決めた。心が定まるまでは、自然にまかせようと思う。

                                 1992.11

 

f:id:babytomi:20210718150239j:plain

f:id:babytomi:20210721173810j:plain

 

女の立場 ―老女のひとりごと(3)

f:id:babytomi:20210718154345p:plain

 ある日、テレビで犬の飼い方の話をしていた。

「子犬のときはオス・メス変わらないが、成犬になるに従って、違いがはっきり現れてくる。メスは従順になり、オスは男性ホルモンの影響で攻撃性が強くあらわれ、縄張り意識も芽生えてくる。だからオス犬に対しては、小さいときから毅然とした態度で接しなければならない」という。

 しつけという点では人間の子育ても同じだ。昔から男の子は男らしく、女の子は女らしくという言葉をいやというほど聞かされてきた。だが、その「らしく」という意味を、近頃ではどうとらえたらよいのかと思う。

 また、「一姫二太郎」という言葉は、育てやすい女の子を先に生み、男の子は次に育てるのがよいということらしい。でもその言葉のウラには、「男の子は繊細で優秀だから……」という本音が隠されているようで、私はいやだ。

 あれこれ思ってはみるものの、男の子と女の子を一人ずつ産んだ私としては身につまされる。たしかに、男の子は育て難い。息子が中学生になったとき、どう叱ろうかと迷ったことがしばしばあった。次第に育ってゆく息子が何を考えているのか、母親の私にはとんと呑み込めなかったのだ。息子はいつの間にやら自立していて、我が家では立派な下宿人となっていた。

 野生のままに生きている自然界の動物となると、様子はだいぶ違ってくる。昆虫や鳥類でさえも、繁殖の季節になるとオスは必死にメスのご機嫌取りをする。本能にあまりにも忠実な行動は、すがすがしくさえ見えるから不思議だ。

 NHKの「生きもの地球紀行」などで、滅多に見られぬ生きものの行動を見たときなどは、これだけのために視聴料を払ってもよいとさえ思ってしまう。持って生まれた動物の本能はとにかく凄い。メスは、どんなときにもどっしりと落ち着いている。そして良い子孫を増やすために、強いオスを着実に見分けている。ときにはわざとオスをじらしているのも微笑ましい。また、繁殖期の次第に変わるオスのとさかや羽の色、それにメスを誘う奇妙な行動などは、テレビに見入っている者を引きずり込み、何かを考えさせてしまうのだ。

 食うか食われるかという瀬戸際の世界に生かされているはずなのに、どの動物もまるで自由奔放に生きているようで、本当に羨ましい。人間界では、それぞれ立場をわきまえなければ生きてゆけない。女の立場は難しかった。だが、私は、そのことにこだわり過ぎてはいなかっただろうか――。

 大事なものを何処かに置き忘れたような気もする。

 本当のやさしさとは……。

 過ぎ去った昔を、私は思い浮かべてみる。

1992.10

f:id:babytomi:20210718155349j:plain

母と鰻   ―老女のひとりごと(2) 1992.9

f:id:babytomi:20210716223552j:plain


 私は鰻の蒲焼が大好きである。それも関西風はイヤ、鰻は何と言っても蒸して焼く関東風が絶対い美味しい!

 あのトロけるような味は、人を幸せな気持ちにするから不思議だ。それに、鰻を食べると母のことが思い出される。思い出したくなって食べるから、なお好きになる。

 私は物心ついたころから「母は鰻が嫌いなんだ」とばかり思い込んでいた。鰻を取り寄せて食べる時などは、匂いをかぐのも嫌だといつも言っていたからだ。

 敗戦直後の頃のことが、昨日のように鮮やかによみがえる。秋もたけなわの頃だった。使用人も徴用に取られ、姉たちもとっくに家庭を持っていて、我が家は両親と弟と私だけだった。食料不足でだれもが苦しんでいた。そんな暮らしをしていた時にいきなり、裂いたまんまの鰻を十匹ほど貰ったのだ。

 家中が喜び勇んだ。例の通り、母は傍にも寄らないので、父が串に刺して白焼き、味付けまでして皆で舌鼓を打った。粗末なものに慣らされている舌には、父のにわか料理でも、すごいご馳走だったのだ。

 母とお茶碗を洗いながら、私は「こんなに美味しいものを、何でお母さんは嫌いなのか不思議だわ」と聞いた。意外なことに、母は「昔は大好きだったのよ」と呟く。驚いたのは私だ。

 「え―何故? 聞かせて、聞かせて――」。私は好奇心の強い年頃だったからしつこく聞いた。だが、母は「男の子がどうしても欲しかったから……」と、それしか言わない。

 「好きだったものが嫌いになるなんで、そんなことがあるのかしら……? 本当に不思議ね」と言う私に、母は、「自分でも不思議でしょうがないんだけど、何故だか嫌いになってしまったのだからしょうがないわね」と笑っていた。こともなげに呟いていたので、当時の私は「そんなものか――」ぐらいにしか考えず、何時しか忘れてしまっていたのだ。

 思えば、母の嫁いだ当時の我が家は、父、舅、姑、住み込みの番頭二人、小僧、通いのお手伝いのいる賑やかな商家だった。跡取り息子が欲しいのに、なぜか五人も女の子ばかりが続いてしまった。

 姑にもあまり好かれなかった母……。

 またか――という思いで、五番目の私が生れた時は、家中がさぞがっかりの頂点だったろうと思う。だけど、私が六歳になるまで下が生れなかったので、結局私は末っ子同前に甘やかされてしまった。

――男の子がどうしても欲しい。

 母はそれまで鰻が大好きだったのである。神様にお願いを聞いてもらうには、一番好きなものを断つのがよい。そこで一大決心をして鰻断ち、お茶断ちの願掛けをしたのだ。そんなくらいだから、妊娠とわかったとき、母の顔つきはさぞ変わったことだろう。

――今度また女だったらどうしようか。

 それが、願掛けの霊験もあらたかに男の子が生まれ、「神様のお蔭」と信じている母の喜びはいかばかりであったことだろう。家中が大喜びで、初節句は内飾りも外飾りも賑々しかったのを思い出す。

 今度は無事に育つかと心配でたまらない。弟は大事にされ過ぎたせいか、よく病気をして母をハラハラさせたものだ。それで、お茶断ちは解いたものの、鰻の方は続けてしまったらしい。そんなこんなで、弟が小学生になるまで続けているうちに、いつのまにか匂いまでが嫌になってしまったのだそうだ。

 今思うと大変なことだと思う。母のどこにそんな執念が潜んでいたのだろうか……。本当は、我が子が気になるあまり、ずっと我慢を続けてしまったのかもしれない。だから匂いの誘惑を恐れたのかしら?

 一途な気持を夫にも言わず、父は知らぬままに逝ってしまった。しかも母がこの話をしたのは後にも先にもこれっきりだったのだ。

 母はとうとう鰻を口にせぬままに、十五年前に大往生をした。

 母の死後、姉たちや弟は「知らなかった――」と驚いていた。現在還暦を過ぎた弟は、この重みをどう感じているのだろうか。

「お母さん! お母さんは、もしかしたらやっぱり鰻が大好きだったんじゃあないの? あの世では、どうか好きな鰻をたくさん食べてね。お母さんを思い出したくなった時は、私も、鰻を食べることにしようと思うの。」

――かくして私は、鰻をしばしば食べることになるのだ。

f:id:babytomi:20210716174443j:plain

 

私と二人の子との、昨日今日 ―老女のひとりごと(1) 1992.9

f:id:babytomi:20210716174443j:plain

ひとりごと(1)


「お母さん、元気にしている? もうご飯食べた?」と名古屋の息子から電話がかかってきた。明るい声につられて「うんうん元気よ、この間も高山に行ってね……」などと、私も負けずにトーンを上げる。

 息子に代わってまた小学生の孫が、給食の話をしきりにする。その下の孫も「あーうー」と、大きな声だ。「電話賃が大変だから、もうそろそろ切るわね」と言うのはいつも私。そんな日は一日中ほんわかとなり、やっぱり家族っていいなあと思うのだが……。

 私はこの頃なるべく外に出るようにしている。今年になってからは、旅行が仕事かと思われるほど出かけた。サークルにも三つ入った。もともとどちらも嫌いじゃないけれど、本音の半分は、子供達に「今度は何々に行ったのよ、何々もしているのよ」と言いたいからなのだ。

 つまり、お母さんはしっかりと暮らしているわよと――。

 去年八月暑い盛りに夫が亡くなった。この十年間に大手術を三度もして、私も共に苦しんだ。無我夢中だった。それがふいに断ち切られて一人暮らしとなり、本当のところ、まだ虚脱感から抜け切れずにいる。

 そんな私を見る息子や娘の目……。子供に心配を掛けたくないという気持ちは、もしかしたら親馬鹿のあらわれなのかしら? あれこれ考えはじめると、際限もなく夫を思い出す。すると、思い出がたちまち胸一杯にひろがり始め、風紋のようにくずれながら黒い影となって私を押しつぶす……。

 息子はいま奥さんと二人の子を、大きなマントでしっかりと包んでいる。そしてこの頃は私にも、さりげなくマントの裾を掛けようとしている。私もごく普通の親だから、やさしい思いやりは涙が出るほど嬉しい。背中のつっかい棒が外れそうになる。

 だが、「甘えてばかりいると、あっという間にボケるぞ――」という声が聞こえてくるのは何故かしらん。今だって「十年も老け込んでしまった」という気持ちにとらわれることがある。だから、カラ元気で子供たちと張り合いたいのかもしれない。

 深層心理はどうであれ、制約のなくなった自分を底知れず甘やかす別の自分がいて、なんだかいつも私は落ち着かない。

 娘はコスタリカに住んで、もう十年になる。帰って来るのは、今まで年に一度位だった。だが、去年は連れ合いを放りっぱなしにして三回も帰って来た。夫の看護をよくしてくれ、臨終にも立ち会った。

 娘婿からの最近の国際電話によれば、彼女もまた時々放心状態になるらしい。お父さん子だったので、やっぱり虚脱感なのかしらん。

 でも私に電話してくる時は、いたって元気な声だ。話の終わりはいつものように、

「お母さんがんばって! 愛しているわよ――」

で、終わる。私も負けずに、

「櫻子ちゃん愛している、愛しているわよ――」

と、叫んでしまうのだ。

f:id:babytomi:20210716174443j:plain