アジサイ  ―老女のひとりごと(10)

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 入梅宣言が出てからもう十日、松戸の本土寺アジサイもそろそろ見頃かと思い、今年も姉と出かけてみた。日曜日だったので人出が多く、参道は野菜や漬物のお店で縁日のように賑やかだった。肝心のアジサイは七分咲きで、一つひとつの花が今年はなぜか小さい。菖蒲田の方は満開で花もしなやかだった。

 いつのことだったろう。本土寺に初めてアジサイを見に行った時は、タイミング良くちょうど満開だった。霧雨の中を、あの変化に富んだ紫色がこれでもかこれでもかと続き、忘れ難い色に思わず深いため息をついたものである。鎌倉よりもすっかり本土寺のファンとなってしまった。それ以来毎年行ってみるのだが、良い見頃に出会うというのはなかなか難しい。

 四季折々にはいろんなお花見があるが、花の盛りにはいつも悩まされる。ぴったり出合ったときは、もうそれだけで我が身の幸運に感動をしてしまう。思えば人生とよく似ている。世の中は、何事も自分の思うようにはならない。だが、行き着く先のゴールもちらちら見え始めた私ともなれば、もうあっさりと居直るしかない。いや、あんまり考えたくないから居直るようにしている。優柔不断なそんな気持ちが反映しているせいか、近頃は心を悩ますものができてしまった。

 文章教室である。その名も「あじさい」。

 アジサイの花のように深い魅力をとの願いのこもったサークルである。自主グループになってからは、本当に気の合った人ばかりが残り、仲間同士でわいわいと楽しく読みあさっている。

 だが、現在は指導をしてくださる先生がいない。先生のいらしたはじめの頃は、好奇心ばかりが先に立ち、怖いもの知らずで手当たり次第に書いたものだ。でも、この頃はわからなくなってしまった。何をしたら良いのか、自分自身をどう考えたら良いのか……。

 心の奥もわからず迷いのあるせいか、いつもしまりのない文章になってしまう。いや、たとえ迷いの心が晴れたとしても思うようには書けそうもない。書くということは、自分を洗いざらいさらけ出すことなのだろう。

 自分の書いたものを読んで恥ずかしくなる時がある。心の奥底をチラッと垣間見るからなのかも知れない。上手に書くということよりも、どう人生に向き合っているかということの方が、ずっとずっと大事なのだと思う。やっぱり、自分との戦いなのだということを思い知る。それを素直に書けば一番いい筈である。だが、私には、この大事な部分が誰よりも稀薄なのかも知れない。

 音の無い雨が今日もゆっくりと降っている。狭い庭の木々は、濡れて色鮮やかに生を謳歌しているようだ。塀に絡まって大木となった蔦の葉も、ガラス越に潤んで見える。

 梅雨はいつまで続くのだろうか。

                                    1993.6

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