夏   ―老女のひとりごと(12)

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 夏になるとすぐ海を思い浮かべるが、海には忘れられない思い出がある。女学校一年の夏休みに、私は海で溺れかかったのである。

 故郷は千葉県上総の一宮(いちのみや)なので、幼いときから夏になると親に連れられて、毎日のように海に行った。一宮川をポンポン船で海岸まで乗って行く。真っ黒に陽に焼けて背中に水ぶくれができ、お風呂に入るとヒリヒリと痛かったことを思い出す。波打ち際でバシャバシャと遊ぶだけなのだが、それがとても楽しかった。五年生になると先生に引率されて、河口で泳ぎを習った。力のない私は中々前に進めず、草臥れてすぐ立ち上がっていた。女学生になってからは、親に散々注意を聞かされたうえで、近所のイミちゃんと行くようになった。二人だけということが、とても嬉しかったことを思い出す。本当に子供だったのだ。

 いつもの茶店に席を取り、帰る時はシャワーを浴びて着替える。おにぎりとそこで食べるおやつ代と船賃を貰って行く。冷え切った身体には、熱い茹で小豆のお汁粉が断然美味しい。ある日、美味しさの誘惑に負けて、二人ともお代わりをしてしまった。当然帰りの船賃が足りなくなる。その時は、三十分歩くぐらい平気平気と思ったのだが、現実は厳しい。なさけなやトボトボと歩くはめになってしまった。川岸の道なので船が見え、乗っている人が羨ましくて仕方がなかった。

 海水浴の場所は、旗から旗の間だ。安全のため、監視員の人が高い櫓の上から見張りをしている。また、寄せた波が引くときは、海から陸を見て右の方へ斜めに引いてゆく。だから、遊んでいても旗にはよく注意をしなければならない。自分の位置が右の旗近くになったら、いったん水から出て砂浜を左の旗まで歩いて行き、また遊ぶのである。

 その時も、右の旗近くになったので、出ようとしたのだが、なぜか引く潮が強く足を引っ張る。何度も波を被ってしまい、そのうちに旗の外になってしまった。顔が出たかと思うと、あっという間にまた次の潮に足を引っ張られ、水に潜ってしまう。いつの間にか足も立たなくなってしまった。隣にいたおじさんが手を差し出してくれたのだが、つかまっているうちにおじさんも水を被り、手を離されてしまった。塩辛い水をいやというほど呑み、アップアップして、助けて――と言おうにも、すぐ波を被ってしまう。苦しくて無我夢中だった。

 その時、監視員の人が来て、私の背中をドーンと押してくれたので、やっとのことで陸に上がることができたのだ。死ぬほど草臥れて青くなり、また、人に囲まれて消え入りたいくらいに恥ずかしかったのを思い出す。

「あんたは、澪(みお)に足を取られたんだよ」、「そんなときは、無理に岸の方へ行こうと思わずに、渦に身をまかせながらスルリと抜けるようにすると良い」と言われた。なぜか名前も聞かれなかったのだ、ホッとしながら家に帰った。

 昔から八月のお盆になると澪が荒くなくと言われている。その時も、お盆が近かったのである。親にはいつもくどく注意されているので、話せば叱られると思い、とうとう内緒にしてしまった。

 私にとって海は、それ以来、眺めるだけのものとなってしまったのである。

                             1993.7

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お金  ―老女のひとりごと(11)

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 若い頃、私の耳たぶは結構ふっくらしていた。それに、右側には大きいホクロがついている。「金持ちボクロだから、一生お金に困らない」と聞かされたことがある。占い者にも、「お金には不自由しない」ということを何度か言われたことがある。

 だが、結婚した当座は、新所帯の家計を持たされたことが何としてもせせこましく、どうしてよいか分からなかった。甘やかされて育った私は、よくよく幼稚だったのだろう。よく考えてみると、どこからか助け舟のお金が入って来て困ったことはなかったけれど、すぐ子供も出来てしまったし、お財布の中が空になったら――という心細さで、自分のことに使うほどの気持ちにはとてもなれなかった。

 結婚の現実に愕然としたのかも知れない。だが、私は夫のことも子供も大好きだったので、心の片隅にいつも巣くっている「幸せって一体何なのだろう」というもやもやした気持ちを、打ち消し打ち消ししながら、所帯を一生懸命に守って来た。今となってみれば、あれで十分幸せだったのだと懐かしく思う。

 この齢になってみると、「金は天下の廻りもの」ということわざがその通りだと思えるようになってきたから不思議なものである。ふところの中が心細くなっても、うじゃうじゃ考えたくない。それに今のところは、何だかんだと言っても一人でまあまあ食べてゆかれるのだから、幸せというべきなのかも知れない。

 早いもので、夫の三回忌がもうじきやってくる。この二年の間には、色々な事があった。身内の中で、夫を含めすでに亡くなった者が五人、現在入院中が一人というありさまで、その他、年齢からいっても予備軍の高齢者ばかりだ。私も、思い残すことのないようにと、なぜかせっかちな気持ちになってしまう。

 そんなわけで、五月初めに思い切って海外旅行に出かけた。歴史のある古い街もよいけれど、自然の景色が一番と思い、まずはナイアガラに決めた。カナディアンロッキー、グランドキャニオン付きの八日間の欲張り旅行であった。

 百聞は一見に如かず――。カナダも、アメリカも、そのスケールの大きさにはただただ圧倒されてしまった。私は特に、カナディアンロッキーが印象深かった。雄大な景色そのものが、これでもかこれでもかと続くのだ。それに、美しさに見惚れているうちに、次第に祈りにも似た気持ちが湧きおこってきたのは、なぜなのだろう。

 また、グランドキャニオンを低空飛行で眺めた時の、あの手に汗握るスリル! 今、生きているんだ! という実感――。

 私の頭の中はすっかりカルチャーショックで、ぐらぐらかき回されてしまった。前日に泊まったラスベガスでは、あの有名な賭博場でサービスの賭け事をちょっぴりさせてもらい、まばゆいばかりのイルミネーションの中でカメラに収まった。往復のジャンボ機や小型機をふくめ、飛行機に乗った回数は九回――。

 やっと、無事に我が家にたどり着き、時差ボケの頭で考えたことは、「こんな素晴らしい経験がお金で買える」――よく考えれば当たり前の事なのだけれど、この時ばかりは、私はお金の有難味をつくづく感じてしまったのだ。

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アジサイ  ―老女のひとりごと(10)

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 入梅宣言が出てからもう十日、松戸の本土寺アジサイもそろそろ見頃かと思い、今年も姉と出かけてみた。日曜日だったので人出が多く、参道は野菜や漬物のお店で縁日のように賑やかだった。肝心のアジサイは七分咲きで、一つひとつの花が今年はなぜか小さい。菖蒲田の方は満開で花もしなやかだった。

 いつのことだったろう。本土寺に初めてアジサイを見に行った時は、タイミング良くちょうど満開だった。霧雨の中を、あの変化に富んだ紫色がこれでもかこれでもかと続き、忘れ難い色に思わず深いため息をついたものである。鎌倉よりもすっかり本土寺のファンとなってしまった。それ以来毎年行ってみるのだが、良い見頃に出会うというのはなかなか難しい。

 四季折々にはいろんなお花見があるが、花の盛りにはいつも悩まされる。ぴったり出合ったときは、もうそれだけで我が身の幸運に感動をしてしまう。思えば人生とよく似ている。世の中は、何事も自分の思うようにはならない。だが、行き着く先のゴールもちらちら見え始めた私ともなれば、もうあっさりと居直るしかない。いや、あんまり考えたくないから居直るようにしている。優柔不断なそんな気持ちが反映しているせいか、近頃は心を悩ますものができてしまった。

 文章教室である。その名も「あじさい」。

 アジサイの花のように深い魅力をとの願いのこもったサークルである。自主グループになってからは、本当に気の合った人ばかりが残り、仲間同士でわいわいと楽しく読みあさっている。

 だが、現在は指導をしてくださる先生がいない。先生のいらしたはじめの頃は、好奇心ばかりが先に立ち、怖いもの知らずで手当たり次第に書いたものだ。でも、この頃はわからなくなってしまった。何をしたら良いのか、自分自身をどう考えたら良いのか……。

 心の奥もわからず迷いのあるせいか、いつもしまりのない文章になってしまう。いや、たとえ迷いの心が晴れたとしても思うようには書けそうもない。書くということは、自分を洗いざらいさらけ出すことなのだろう。

 自分の書いたものを読んで恥ずかしくなる時がある。心の奥底をチラッと垣間見るからなのかも知れない。上手に書くということよりも、どう人生に向き合っているかということの方が、ずっとずっと大事なのだと思う。やっぱり、自分との戦いなのだということを思い知る。それを素直に書けば一番いい筈である。だが、私には、この大事な部分が誰よりも稀薄なのかも知れない。

 音の無い雨が今日もゆっくりと降っている。狭い庭の木々は、濡れて色鮮やかに生を謳歌しているようだ。塀に絡まって大木となった蔦の葉も、ガラス越に潤んで見える。

 梅雨はいつまで続くのだろうか。

                                    1993.6

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古い琴  ―老女のひとりごと(9)

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 夫を見送り、一人暮らしにも慣れたこの頃は、昔のことがしきりと思い出されてくる。

 昭和40年代半ば頃、私は自分でも呆れるほど、お琴を教えることに夢中になっていた。その頃のことを思い出すたび、なぜか我が身がいとおしくなる。

 千葉の某会社のサークルにも、マイカーで出稽古をしていた。私への謝礼は会社持ちなので、お弟子は無料。だから人数も結構増えたのである。習い始めると家での練習用にお琴が欲しくなる。気軽に習うお弟子は気軽に買える古いお琴がいいと言う。サークル指導に舞い上がっていた私は、古いお琴をどうしても見つけてあげたくなったのだ。

 その頃は、新聞に「売ります買います」の欄があった。何気なく新聞を見ていた頃はよく見つかったのに、いざ探すとなると「お琴売ります」は中々載らなかった。

 しばらくして「お琴買います」が載った。都合のよい話は、おいそれとあるはずがない。でも私は、こんな時ほどせっかちになる。「お琴買います」の人に電話をしてみたのだ。もしかしたら、複数の人から電話があったのではないか――と。

 その通りだった――、その人には四件も電話がかかっていたのである。丁寧にこちらの事情を話したら、二件は遠いからと電話番号を教えてくれた。一つは何と葉山、お琴は二面あると言う。素人同士だから、すぐに気が変るかもしれない。早い方がよいと思い、夫にわけを話して、その日の午後愛車で葉山まで突っ走ったのだ。

 一つはガタガタだったが、二面とも買った。助手席を倒すと、琴は四面載せられる。もう一件は横浜の近くだった。後で琴屋さんに頼んで、痛んだ所を修理して糸を替えてもらった。

 しばらくして、売り手を譲ってくれた人にお礼の電話をしたら、その人は迷っているうちに相手の方から断られて、二件ともおじゃんになってしまったとのこと。

 弟子たちは大喜び。私はすっかり未知のスリルに酔ってしまった。それに私の所にも余分の琴はあった方がよい。だから私は情報が入るたびに走った。景気の良い頃だったので、古い物を処分する人が多かったのだろう。だが、象牙の柱付きの琴の時は迷ってしまった。中古品は、何より安さが魅力なのだ。でも、結局私は自分用に買ってしまった。

 こういうことにも時代が反映するのか、二、三年したらパタリと「お琴売ります」は載らなくなってしまった。だが幸いなことに、お弟子たちの懐(ふところ)も気持ちも豊かになってきて、みな新しいお琴が買えるようになっていたのである。

 お琴が縁で親友となった人がある。

 彼女もお琴を譲ると新聞に希望を出していた。訪ねて行くと、いきなり「お琴は差し上げます」と言う。若い彼女はお茶とお花を教え、お習字は両国の弥勒寺の住職を師とたのみ、サークルを作っていた。その先生のツテで一流の書家に掛け軸を書いて頂いたので、近々自宅でお礼の宴をと考えている時だったのである。

 すてきなお庭のある家で、ご馳走の後お茶も一服差し上げたいと思い、それにはお琴の演奏が欲しい、使わなくなったお琴を譲る人に当日弾いてもらえたらと、そんな期待で希望を出したのだと言う。なぜか気が合い、「当日ぜひ琴を弾いてほしい」と私は頼まれてしまった。

 帰ってから夫に話したら、私以上に感激した夫は、「近頃にない美しい話だね。それにしても、おばさんの下手な琴だけではさえないから、よかったら娘の日舞もお見せしたら」と言う。

 娘は高二で坂東流の名を取り、その時は大学生になっていた。お小遣いを出してその気にさせ、「松の緑」を踊らせた。

 おばさんの琴はその通りなさけなかったが、娘はすっかり気に入られてしまった。その秋のおさらい会に「たけくらべ」を踊ることになっていたが、何と琴をくれた彼女の先生は樋口一葉を研究なさっていたのである。以来、娘の会にはいつも来てくださった。

 そして、あきれたことに、暇のない私がいつも間にか、彼女のお習字のサークルに入っていたのである。

                                 1993.5

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夢   ―老女のひとりごと(8)

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 幼い頃、恐ろしい夢にうなされた覚えは誰にでもあると思う。

 私も、鬼のような黒い影に追いかけられる夢をよく見た。逃げようと思っても足がすくみ、階段を駆け上がろうと思っても、もがくばかりで足がちっとも前に進まない。うなされて思わず目が覚める。

 心臓だけはドキドキしたままで、夢だったと分かっても、まだ恐ろしくてたまらない。たいてい薄暗い夜明け頃で、隣に眠っている母親を見て子供心にホッとしたものだ。そんなとときに聞いた夜明けを告げるお寺の鐘の音は、いまでも寂しい悲しい音として強く耳に残っている。

 そういえば、近頃はちっとも夢を見なくなってしまった。主婦業もここまで古くなってしまうと、情けなや、考え方も夢見る心もすっかりどこかに置き忘れてしまったのだろうか。

 昼日中、ぼーっとしたりして、いつの間にかうつらうつらしている時がある。何かを夢見ていることもある。そんな時は何もしたくない、いつまでもそのままでいたくなる。

 そんな誰にも邪魔をされない怠惰な世界に、どっぷり浸かるのも悪くはないとは思うのだけれど、それではこの世の中に背を向けることになる。

 私は、この先いったい何をしたいのか、どう生きたいのか――。

 このあいだ、珍しく八日ほど入院をしてしまった。急性胃炎、鬼の霍乱で絶食四日。その間は点滴の管をつけっぱなしで、トイレに行くにもガラガラと引きずり、みかけはすっかり重病人だった。

 退院後、さっそく二泊三日の温泉旅行に行った。今のところは健康も保っているし、思い立てばすぐ旅行に行かれる自由もあるし、これはこれで有難い。感謝すべきなのだろうと思う。

 今日は、甲斐一宮の桃源郷で名実ともに満開の桃の花を見た。高速道路の両側に絨毯のように続いている桃畑。樹の下に立ってみると、四方にのびた枝にびっしりと桃の花が咲いている。ピンク色の花の中心がちょっと赤くて、それがぽってりとした暖かい感じがして、何とも言えない美しさだ。たとえ花の散るまでの短い間であろうとも、ここは理想郷に違いない。

 生きているからこそ感動もする。普通の食事ができるようになり、あらためてそれを実感した。

 また、幼い孫のキラキラと輝く元気な瞳に出会うと、救われる思いがする。何の疑いもなく、明るい未来を受け入れられる無心さは本当に尊い。無邪気な願い事もほほえましい。いつまでもそれが続くようにと願わずにはいられない。

 それとともに、我が身にもいつかは訪れる終わりの日を強く心に刻んだ。

 夢や願いとは、強いて言えば、無心になりたいということだけだ。

                             1993.5

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花 ―老女のひとりごと(7)

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 今年は暖冬なので、まだ二月に入ったばかりなのに、上野の桜はもう三分咲きのようだ。

 一月末に見た沖縄の桜は、紅梅のように濃い色で盛りを過ぎていた。葉も赤く、散る時はひらひらではなく、がくごとポトポト落ちて、美しいというより少しあわれな感じがした。デイゴの花も冬場のせいか、目立つようには咲いていない。

 海だけは、碧く澄み、色も七色と思えるほど濃淡が美しく、岸辺近くに珊瑚礁が横たわっているせいか、立つ波も絵のように美しかった。植物園では、ハイビスカスや蘭ばかりが賑やかだった。みごとではあるけれど、造花のように綺麗なのであまり感動がない。

 その二、三日後に行った伊豆の河津の桜は、日当たりの良い場所では満開に近かった。ソメイヨシノにちょっと似ていたが、赤い葉もチラホラしていた。風が吹くとハラハラと散る。これこそ桜だ。

 堂ヶ島に行く途中のサボテン園では、アロエの花をはじめて見た。オレンジ色に近い赤い花である。三島大社では、金木犀の大木が注連縄(しめなわ)をしていた。大変古い樹だそうで、折れるのを防ぐために、鉄パイプでぐるりと風除けをしてあった。たくさんの枝がこんもりと形よくみごとなので、花の季節にはさぞ素晴らしい香りが漂うことだろう。

 嬉しいにつけ、悲しいにつけ、花は人の心を和らげてくれる。どの花も美しい。見惚れているうちに無心になる。

 だが、花に関わる仕事をしている人たちの事情は、それどころではない。この情報過多時代、世界中の花が飛行機に乗って来る。オランダをはじめとして、ニュージーランド、オーストラリア、スペイン、アルゼンチン、その他あらゆる国から輸入されてくるのである。種類もチューリップはもちろん、レッドジンジャー、プロティア、カンガルーポウ、サンザース、スノーボール等々、はじめて聞く舌を噛みそうな名前ばかりだ。

 近頃では、冬でも竜胆の花をよく見かける。温室栽培をしているのかと思ったら、意外な事情がかくされていた。

 なんと、栃木県那須町の竜胆を、ニュージーランドで栽培しているのだそうだ。那須町は寒暖の差が激しいので、竜胆の濃紫がとても美しくて特産品になっている。だが、出来る季節は限られている。冬場の温室栽培では採算が合わず、生き残りのための町をあげての取り組みなのだという。ニュージーランドと日本は、春秋が逆だが同じような気候なのだ。それで、五年前からあちらの農家の人たちと互いに行き来をして、栽培のノウハウをよく教え、二年前からだんだん輸入が出来るようになったのだという。軌道に乗れば、花屋さんで一年中竜胆が見られるのだ。これからが正念場らしい。今年も三月までが勝負だという。この季節なので、今はピンク色のが喜ばれ、よく売れるという。

 花は何も言わない。蒔かれた場所が何処であろうと花を咲かせる。ニュージーランドで育った竜胆は、心なしか紫が濃く見えた。

 自分が美しいということも知らない。摘まれても、捨てられても、そのまま受け入れる。だからこそ、人の心を打つのだろう。

                                  1993.4

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別れ ―老女のひとりごと(6)

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 今年は、旅行をしている間に身内の不幸に二度も遭ってしまった。一度目は、大晦日に出かけ正月三日に帰った時である。翌日が通夜であった。二度目は、ついこの間(二月の後半)南紀の旅行に出かけた時である。

 私は旅行中身内に電話などしない。南紀熊野三山速玉神社、青岸渡寺紀三井寺等々、お寺が多い。那智の滝を見て忘帰洞に泊まり、二日目は白浜温泉。勇猛果敢な熊野水軍(海賊多賀丸の隠し洞窟)三段壁という所に私は圧倒された。大阪から羽田へといい気分で帰り、夜十時ごろ家に着いたら、電話がしきりと鳴っている。私の長姉の夫が亡くなっていたのだ。翌日が葬式だという。

 度々病院へお見舞いにも行き、まだ二、三ヶ月は大丈夫と思い込んでいた私は、旅の疲れも重なってすっかり混乱をしてしまった。

 夫より十も年上だが、堀の深い顔立ちが何故か皺もなくなっていて、夫の死に顔と見間違うほどだった。あの世とこの世との隔たりをまざまざと見せつけられ、またしても無常の思いでいっぱいになる。身近な人の死に遭うたびに、自分の寿命も少しずつ短くなるような思いがする。

 義兄は、伊勢の生まれである。伊勢神宮近くの人は神に守られているためか、ほとんどの家が神式なのだという。それに、伊勢から来られた縁者の話によれば、義兄の先祖は伊勢神宮禰宜の流れを汲むという。市川のセレモニー式場で葬場祭を執り行うことになった。

 私にとっては初めての体験であった。お供えは大きな鯛、スルメ、昆布、お酒、お米、お菓子、野菜等々、神社と同じである。

 あわれ○○○○の尊よ、よもつひらさかの国に隠れ給い、昨日も今日も寂しさいやまさり云々……、今日よりは、高天の原の神々の座におわしませば云々……、たいらけく安らけく……と、御祓いを受ける。

 二礼二拍手(音無し)一礼をして玉串を捧げた。お棺の中にも花と一緒にお榊を入れ、火葬場でも神となった故人のために御祓いをする。

 神様になれるならまんざら悪くもないなと思う。姉の夫は、我々と同様いたって無頓着不信心な人であった。もう八十半ば、東京暮らしも六十年以上になるので、仏式でもよいと言い、大分前に私たちの実家のお寺に二区画もお墓を買ってあった。

 お寺の墓に入れるには宗旨を替えなければならない。だが、伊勢の縁者の気持ちも大事にしたいのだろう。新しく霊園を買おうかと、姉は迷っている。五人の子供たちは、母親の気の済むようにと言っている。幸い姉の所は金持ちなので、いずれはどちらかに決まることだろう。

 この世では、色々としがらみが絡んで大変である。

 だが、神様も仏様も、もしかしたら、あの世では仲良く同居をなさっていらっしゃるのかも知れない……。

                              1993.3

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